フランシス・ベーコン
Francis Bacon
フランシス・ベーコンは1909年イギリス・ダブリン生まれ。29年よりロンドンでインテリア・デザインの仕事に携わりながら、フランスでパブロ・ピカソの展覧会を鑑賞したことをきっかけに画家を志して独学で絵画を学ぶ。初期では、キュビスムやシュルレアリスムを研究。またニコラ・プッサンの《嬰児虐殺》(1629)を見て「叫び」の表現に関心を持つ。アトリエで自作の発表会を開くも思うような結果が得られず、筆を止めて職を転々とする。33年に制作を再開。ピカソの作品に影響を受けた《磔刑図》が、美術史家ハーバート・リードの著書『今日の美術』にピカソの作品と並んで掲載される。翌年に自ら「トランジション・ギャラリー」をオープンし、初個展を開催。しかし成功には遠く、このとき多くの自作を破棄している。39年に第二次世界大戦が勃発。持病の喘息のため兵役を免除される。
終戦後は絵の制作に専念し、45年のグループ展(ルフェーヴル画廊、ロンドン)で衝撃作《ある磔刑図の足下にいる人物たちのための3つの習作》(1944)などを発表。極端に歪められた人物像は賛否両論を呼んだものの、画家の知名度を上げるとともに支持者を得る機会となった。実質的なデビュー作と位置づけられる同作品では、戦後の社会状況と人間の孤独を表現。その後も好んで用いた三幅対で描いている。50年頃よりディエゴ・ベラスケスの《教皇インノケンティウス10世の肖像画》の複製に基づく「教皇」シリーズに着手。神に次ぐ存在が叫びを上げるという印象的な描写は恐怖を与えためではなく、「叫び」そのものを描く試みであり、同シリーズにあたって映画 『戦艦ポチョムキン』 (1925)のワンシーンや歯の専門誌などを参考にした。また同時期に、写真家エドワード・マイブリッジに依頼した連続写真を使った人物画や、写真をもとに描く風景画、ゴッホの作品から着想を得たシリーズに取り組む。
53年、ニューヨークで海外初の個展を開催。翌年の第27回ヴェネチア・ビエンナーレ英国館代表に選ばれる。50年代後半〜60年代初めまで、同性愛者に寛容なモロッコ・タンジールを拠点のひとつに、小説家のウィリアム・S・パロウズや詩人のアレン・ギンズバーグらと交流(ベーコンは生前に同性愛者であることを公言)。63年にニューヨークでパートナーとなるジョージ・ダイアーと知り合い、その肖像画を多数制作する。64年に初のカタログ・レゾネを刊行。66年にルーベンス賞を受賞する。世界各地で巡回展を開催するなか、71年に恋人のダイアーが自死。以降、その死を悼む作品を繰り返し発表する。81年、今日のベーコン論の重要書であるシル・ドゥルーズの『感覚の論理学』が刊行。83年に日本初個展を東京国立近代美術館で開催される。晩年はドミニク・アングルの絵画を参照した人体習作のシリーズなどを制作。また91年に、《ある磔刑図の足下にいる人物たちのための3つの習作》を、サイズや背景色を変えて《1994年制作の三幅対の第2版》(1988)としてテート・ギャラリーに寄贈。亡くなる直前まで筆を執り続けた。92年没。